3日前にぎっくり腰が再発した。しかも、瞬間的に発生したのではなく、じわじわと炎症が広がっていき、最終的には腰から背中にかけて、ピキり続けるという状態になってしまったという話だ。 先日、私は子供のころの喘息が大人になって再発し、今しがた忘れていた腰の痛みが出てきて、とても不安になった。 おじいちゃんになった時、肺と足腰が雑魚なのは、さすがに未来が不安すぎる。 妻には、せめて足腰を健全に保てる努力をしては、という提案をされたので、やるつもりではある。 一方で、私の怠惰だけでぎっくり腰になったかというと、仕事の肉体労働を一生懸命やってしまった結果、起こしてしまった症状であるからして、正直、やるせなさしかない。 なんか、その時頑張っても腰はやられるし、その結果、腰がやられっぱなしだと、何も得しないという一個も良いことがない。 はぁ、まぁ、頑張る必要って実は人生にそんなになくて、あったとしても、ここ一番という時だというのは、ひしひしと感じ始めている。 Chat GPTに聞いたら、「起こさないように頑張り過ぎないことと、起こした後も頑張らないことが大事です。」みたいなこと言われて、さらに何も言えなくなった。 本当に萎える。 友人に、リーダー目線で仕事がたくさんある時に、広く浅く進捗するのと深く1個ずつ進捗終わらせるのどっちがいいと相談されたんだけど。 僕は「実は上司って、どんなにたくさん振ってても、1個終わらせてるだけで印象が違うんですよね。」って、深く1個ずつ終わらせる方がいいのを推したんだよね。 いや、僕が出来てねぇよ。ふざけんなと、大事なこと多すぎだろ、ク〇だな。 腰が痛いから、とにかく、回復に専念しちゃった方が長い目でみたら、痛がる時間が短いわけだけど、日々の生活に勝てなかったわ。 別に言われてないけど、凄い気を使っちゃうよ。勝手に。 仕事では全力で無視出来ると言いたいけど、人数が違うもん、代わりに仕事する人数が。 子1人、妻1人だもん。結局、妻がダウンしたら、終わりじゃんね。平均して家事しないとやっぱ無理じゃね。 この世は理不尽過ぎるとか思ったけど、実際は義両親とか両親に頼るところなんだろうか。ご近所さんだろうか。 他責という意味では、自分の親も呪っちゃう勢いだよ。 ネガティブ要素で固めたくないけど、誰の声かけも信じられなくなる。本当にそう思ってるんか?ああ...
SNSの普及によって誰かや何かと比較することが日常になっている現代において、変わらない価値観っていくつかあると思うけど、ついさっきその一つを考えてた。 僕が20代の若かりし頃、会社や私生活で出会う30代以上の大人で、自己主張が激しい人って結構いるよなって思っててさ。 もうちょっと抑えていれば、変にヘイト買うこともないのにとか思ってたんだよ。 だけど、30代半ばを迎えてみて、思ったことがある。 いや、これは立場や家族構成によっても左右されることは重々承知している。 歳を取れば取るほど、簡単に味方になってくれる人は減る! 自分のことは自分で守るしかない大人たちは、傍から見たら自己主張が激しいんじゃないか。 という仮定に至りました。 でも、そう考えてみていると、「ああ、この人、生きるのに必要なことをしているのか。」と思って対面出来るから、変な先入観は払しょくされる気がしてる。 そして、何より、僕自身も「そうしないと厳しいかも。」と思う出来事が増えてきた。 例えば、仕事で立場が上がっていくと、誰にも頼れなくなり、弱音も吐きにくくなって、その癖要求だけはされて、駄目だったら攻められる。 子供が居れば振る舞いに気を使い、生きるために生活をしなければならなく、勝手気ままというわけにはいかない。 とにかく自分以外からの干渉に対して、ただ受けているだけでは器の崩壊は避けられない、そう思うことが増えてきた。 例えば、1日のうち、何も考えなくていい時間がないことが続くと、自分を守るために脳みそが働きかけてることが明らかだと自覚することもあったりする。 吐き出せ!吐き出せぇ!ということが出来なかった場合は、あたれ!あたれぇ!になっていく。 ため息は自分を守るための自動排出機能とは言うけれど、多分、感情というものもきっとそうだと思う。 訓練されたマリモは、出来るだけ人格の深い所にとどめて、徐々に薄めて拡散するというイメージでアンガーをマネジメントしているのだけど、限界はやはりありそうだ。 人間という枠組みがある限り、あふれ出すことは必然。そして、それは機能としてある。 僕はそれを許すわけにはいかない。 だけども、溜めすぎるのはよくない。いつか友達に言われた、「マリモさんは出してかないと。」っていうのは、ほんとそうだと思う。 こうしてブログでアウトプットしているけど、実は文字にするの...